全般発作のブログ

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障害ということ②「障害は個性」なのか?

障害のロールモデルは「障害は社会の側にあり、社会の障壁を下げることで障害を除去できる」とする「障害の社会モデル」に徐々に変わっているが、一方では障害者福祉においては「もっとケースワークを、もっと独自性を、もっと個性を」という圧力の強まりを感じる。これは福祉サービスの利用者側の要請というのもあるが、むしろサービス提供の質が低ければ淘汰されてしまうという方が大きな要因だろう。

確かにケースワークと個性を重視するということは素晴らしいことなのだろうが、重視されても仕方ない障害の実体そのもの(除去できるものではない欠損)がある。下半身麻痺で排尿支援と移動の支援が必要ならばそれらは常に必要だし、強度行動障害のために常に見守り支援が必要で食事のペース配分や排尿介助や自傷他害を行わないか等を常に見守る必要があるなど。そういうものは置いておいて「個性」と言われても、僕はなかなか厳しい気持ちで聞いてしまう。

そもそも障害を「良い面での、ポジティブな、社会において障害にならない個性」としてしか抜き出そうとしないなら、その逆は「ダメな面、欠けた面、できない面」として露骨に現れてくることになる。そのどうやっても除去できるものではない欠損を補填するのは支援者や家族などの役割だろう。それは今までと変わることはない。だからこそあえて「個性」と言い張る必要など特別ないと思われる。生まれつき既にあらゆる場合において、すでに個性的であるわけだから。

そもそも実際そこまで個性を引き出せなければダメな支援なのだろうかと、疑問を感じることは無数にある。というよりも個性というのはこちらから引き出せなければならないものではなくて、多分元々本人が持っているものなのであって、それが出やすい環境を調節するくらいしか精々できることなんてないだろう。こっちが勝手に想像している何かを引き出せなければならない、なんていう訳ではないのだし。

さて、僕について「障害は個性である」とするなら、全般てんかんADHD、大うつ病等々のことを「精神疾患」「精神障害」ではなく「個性」「特性」と読み替えることになる。しかし先に言ったように、強度行動障害や下半身麻痺のようなdisease やdisorder は、個性や特性と同じcharacter でも characteristicでもないことはどう考えても明らかだろう。「損なわれ続けている」もの、「欠けている」もの、「努力や根性で出来たりするわけではない」ことを個性や特性とはいえないだろう。

今は3年目になるが、今後てんかん発作の抑制のためには僕は数十年単位で薬を服用しなければならないし、その「個性」と「特性」が失わせてくれたものは限りなく多く、得られたものは限りなく少ない。

仕事の範囲は狭くなり、運転は制限され、多くの記憶が無くなり、記憶出来る範囲は狭くなり、できないことばかりが増える。しかし残念なことに僕には家族が残っているので、この「個性」と「特性」というのにはあまり活躍してもらわない方が生きていくためには何かと都合がいい。

だが、てんかんADHDを併発している僕は、目の前で遊んでいる息子が突然叫び声を上げて、倒れて痙攣し続けるかもしれない確率を上げているし、寝ている娘が突然痙攣して死ぬ可能性を上げているのだが、幸いにして、まだそれらは起きていない。こういうこと、こういうものを「個性」とか「特性」と言えるほどの突き抜け方を人に、ましてや息子と娘に強いることはとてもじゃないが僕には無理だ

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