全般発作のブログ

全般てんかん・ADHD患者のブログ

障害ということ①自己受容~自分と仲良くなる

発達障害者であっても、適応行動においては適応した振舞いが身に付いているから、素晴らしいことができる人もいる。それは称賛や尊敬を集めたりして、素晴らしい人格特性だと褒め称えられることがあるだろう。他方で、不適応行動においては不適応な振舞いしかできないこともあるだろうから、否定や批判しか集まらないこともあるだろう。

身に付いている適応行動を見せられる場においては「適応している姿」と「良い意味での個性」が見られるだろうが、身に付けられない行動か、不適応な行動をとる場においては「適応できない姿」と「悪い意味での個性」が見られるだろう。でもそれは健常者でも全く同じことではないか。

休日の生活は家の中では終日全裸だが、仕事のある平日は紳士の振舞いで過ごす人がいるとすれば、彼の平日の過ごし方は適応行動だと見た人は言うかも知れないが、休日の過ごし方は不適応行動だと人によっては言うかも知れない。まあお風呂にはすぐ入れるかも知れないが。

行為を「適応できている面での行動」から抜き出そうとすれば「良い」「すぐれている」「うまく出来ている」「上手にできている」などというラベルの貼られた行為がずらりと出揃うが、「適応できない面での行動」から抜き出そうとすれば、それらの逆のことが言えるのではないだろうか。

そういう意味では「発達障害という行動が要因であった」というよりも「発達障害の行動を不適応な方向に向かって悪化させた環境の方が大きな要因であった」という方が、本人が生きる上で大きな影響を及ぼしているという可能性もありうるだろう。

実のところ選びようがない「環境要因」が規定するものは本当に大きく、本人が自分で決められるものはほとんど残されていないのではないだろうか。

例えば知能における遺伝要因というのもよく知られているように、かなりの確率で両親の遺伝的な形質を受け継ぐ。発達障害における遺伝要因というのもかなりの確率で受け継がれることが分かっている。場所や地域を変更しても自分では変えることが叶わない以上、これはある意味、本人にとって避けようのない環境要因だと言える。

当事者にとっては、自己と環境とを分かつ分水嶺がどこにあるかを考えることは、ほとんど不可能なことだといっていい。自分自身も環境の一部でもあり、自己でもあるという二重性を持っているという特質性が更にそれをややこしくさせる。しかし、出発点としての自己受容を僅かながらでも進めていくこと、それだけでも進めていくことができたならば、相反する適応的な自己と不適応的な自己との仲を取り持つことを進めていくことにも繋がるのではないだろうかと思う。

スポンサードリンク